母の短歌

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 つけ呉れし緊急通報使ふなく 今日は返して娘の家へ移る 嫁をとり娘等を嫁がせ夫を送りき この家の五十年思ひは深し

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 墓を清め娘の家へ行くを夫に告ぐ 心安らに夫もなりしか 何処よりか種の舞ひ来て育ちしか 夫の墓辺に秋桜赤し

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 白鼻心に大方やられ獣の臭 残る蜀黍の片付けをなす 親を看取るは大役なるに易々と 受け入れ呉れし娘夫婦よ

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 「チロルの森」の草原に遊ぶ山羊の群 乳を搾りし遠き日思ふ 避難所より仮設住宅に移りたる 老い等の孤独死心の痛む

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 リニア線が飯田を通るは十七年後 もはや黄泉なる夫と居るらむ とり残しのゴーヤーいつしか橙色 不気味に割れて赤き種見ゆ

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 里芋の葉にたまりたる露玉に 亡き兄と飾りし七夕想ふ 馬鈴薯を掘れば忽ち天道虫 茄子やトマトの葉に散らばりぬ

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 曾孫の健やかな成長祈りつつ 吊し雛二連十四体を縫ふ それぞれに深き意味持つ吊し雛 米俵は食蛤は貞操

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 夕菅の莟数へる夕べの庭 青蛙幾匹か葉群より飛ぶ 年々に娘ととり来し山蕗も 今年は買ひて伽羅蕗を煮る

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 被災者等を置き去りにせし政争に 政治不信の益々つのる 母の日に瓦礫の上に白カーネーション 供へる若き等の姿よ哀し

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 梅雨の晴れ間草とる庭に風出でて ローズマリーの香漂ひて来ぬ 打ち込めるものある幸を思ひつつ 曽孫に送らむ吊し雛縫ふ

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 福島の七千戸の農家が 米作付け禁止となりしと今日は聞きたり 初どりのアスパラガスを手折る音 雨の上がりし畑に心地良し

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 福島より飯田へ逃げ来し人等 吾等の五平餅を美味しと頬張る プライバシーなき避難所に助け合ふ 人等の姿尊く思ふ

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 踏場なき瓦礫の山より親が子を 子が親をさがす姿よ哀し 遠き地のことと思ひしに店頭に トイレットペーパーなしただ驚きぬ

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 四十路に老後に備へる言ひ居し娘 五十半ばに逝きてしまひぬ 満開の桜の花を愛でつつも 被害者思ひ蟠るもの

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 観測史上最大とふ大地震 東日本を襲ひ飯田もゆれる 夕方になりて漸く通じたる 子の声に安堵し少し落ち着く

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 病む友の笑顔が見られるうちにとて 夫君は「農娘」を出版されたり 病む友が玄関を出れば鳴ると言ふ 器具つけ夫なる君は働く

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 久々に逢ひに行くから「千の風」に ならず娘よ墓に居てくれ もうと思ふかまだと思ふか生き方に 差のつく八十五才の誕生日

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 「老いては子に従へ」と言ふ良き訓 守りて吾の心定まる 我儘を許してくれと八十五迄 気ままな独り暮しを楽しみて来ぬ

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 新幹線南アルートの決定に 飯田の町に祝のポスター 現代の魔法の調理器とふシリコンスチーマー 作りし温野菜旨しともうまし

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 風無くて初冬の光澄む畑に 土盛り上げし豌豆間引く 逝きし娘の庭より移しし杜鵑草 盛り咲けるに時雨降りつぐ

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 遠き日に覚えし歴代天皇の名 今もすらすら暗んじ得るも 年々に吾より若き友等逝き 賀状の数の減りてゆくなり

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 来年も健やかに生くるを信じつつ 合服を仕舞ひ冬服を出す 岐阜蝶の飾りつくこの外灯の 下に待ち呉れし友の幻

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 良く成りて食べしゴーヤーの柵を崩す 蔓もはっぱもしるく匂ひぬ 神無月下旬と言ふに十センチの 雪に驚く斑尾に来て

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 猛暑続き一日も早き涼しさを 願ひ居りしに俄かに寒し 風吹かず慈雨となりたる台風を 喜び今日は大根を蒔く

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 逢ひたき人思へば大方世に存さず 面影を偲ぶのみとなりたり 大根を間引きつつ聞く虫の音に 後幾年畑作を成し得るや想ふ

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 わが庭の山椒に生れし揚羽蝶 今日もきたりて廻りを遊ぶ 脇芽さし苗を作りしフルーツトマト 成長良くて赤く熟れ来ぬ

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 己が幸を人の物差しで計るなと 兄の言ひしが心に残る 種にせむと取り残し置く豌豆を 山鳩の番今朝も啄む

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 幻の花とふ青い芥子の花 見たしと思ひ居て今日叶ひたり 青い芥子見むと上り行く狭き道 車窓に青葉の時折りすれ合ふ

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 梅雨の雨に百余り咲く額紫陽花 其処のみ暮れず夕べ明るし 新しく土竜の上げし土踏みて 蜀黍の根本に土よせをなす

母の短歌

[母の短歌]追憶の風 手作りの布の草履は素足に優し 好みて日々に厨にはきぬ ビール工場に人影のなく機械のみ 動きて次々に箱に詰めらる